江國香織『きらきらひかる』の感想文

家じゅうにある本の中で一番読み込んでいる作品。

 

男性の恋人がいる夫・睦月とアル中で情緒不安定の妻・笑子。というと、破綻した家庭を想像するけれど、読んでみると究極の夫婦で恋人だとわかる。飲まずにはいられない笑子にシャンパンマドラーを贈る睦月も。睦月の恋人と3人の子を宿せないかと医者を訪ねる笑子も。息苦しくなるほど愛おしい。

 

本作のタイトルは、入沢康夫の詩『キラキラヒカル』から名付けたという。この詩を初めて読んだ時、胸骨のあたりに小さな穴があいて、そこに差し込む一筋の光が放射していくイメージを思い浮かべた。掴まえておくことができない美しいもの。感情の媒介としてただそこに在る自分。

 

睦月の父親が笑子へ「あいつと結婚するなんて水を抱くようなものだろう」という。不毛を意味するのであろうこの言葉も、一瞬の光に感じて、わたしも、あいつも、おとこも、おんなも、無体物で。睦月と笑子を夫婦・恋人たらしめるのは、掴めない、持ちえない、そういうものへの信頼なのかも知れない。

 

あとがきには「素直にいえば、恋をしたり信じあったりするのは無謀なことだと思います。どう考えたって蛮勇です。それでもそれをやってしまう、たくさんの向こう見ずな人々に、この本を読んでいただけたらうれしいです。」とあった。

 

 

 

 

江國香織の作品に出てくる女性は落ちぶれても美しい。アル中といったって飲むのは196ではなくジンとキュンメル、泣きつくのは元彼ではなく紫のおじさん(セザンヌの自画像)。等身大の自分ではないからかえって感情移入できる。

 

 

 

 

 

 

 

 

西加奈子『白いしるし』の感想文

すごい恋愛小説があるもんだと思って。

夏目は友人である瀬田の紹介で「まじま」に出会う。「まじま」は「間島」なのだが、確か、“あかん人になる”という表現が作中にあった。そういう錯乱状態で「まじま」になるのはよく分かる。

 

私もまじまに会ったことがある。はじめて彼の個展に行った時、周りにはファンの女性でいっぱい。作品を見て帰ろうと駅まで行って引き返し、片付けをしているところに声をかけた。あなたの絵が好きです、と搾りだすと握手を求められた。その瞬間、手のひらからぬるい水が湧き出て、徹夜仕事で風呂に入っていないことを思い出して、何より触れたら“あかん人になる”と言う悪い予感がして、丁重に握手を断り、逃げ帰った。それからも何度か展示会に足を運んだが、怖くてやめた。

 

理性ではなく本能で好きという感情を超えると、言葉なく、ただただ圧倒的な存在になってしまう。うっすら怖いんである。吸い込まれそうで押し出されているような。それでも交わりたいし、(調子がよければ)出会えたことに感謝☆なんて思うから、本当に恐ろしい。

 

夏目だけでなく、瀬田も間島にとっても、それぞれのまじまがいる。この二人には共感さえしなかったものの、恋や愛にはおさまりきらない思いをもてあましていても、まあそれでよいのだな。つづくつづく、と思えたのが救いだった。

 

もう一つ、気に入っている恋愛小説があるので次に書く。

 

 

 

 

映画『花束みたいな恋をした』 の感想文

「この冬、誰もが涙する最高純度のラブストーリー」ほんまか?

孤独と向き合う話だ。“運命”のように出会った麦と絹は社会に揉まれるうちにすれ違い、いつしか溝がうまれ、別れを決意する。でも、その溝は出会う前からあった。絹が「やりたいことしかやりたくない」というのは、そんなことを言えるほど(無自覚に)恵まれているからで、麦が「生活のため」というのは、男たる責任感や成功者の虚像に振り回されている気がする。溝はずっとそこにあったのに無視していただけ。彼らに限らず、皆が誰とも分かり合えない。取るに足りない凡庸な存在。だけど、だから、私たちはなんとか共通点を見つけて喜び、お互いに認めあって、孤独ではないように振る舞う。この行為の頂点を「花束みたいな恋」と表現するなら、なんて美しく、ひどい話なんだ。手の内で腐る。

 

 

 

 

作品への批判ではありません。

ぶっちゃけ予告しかみてない。明日みる。